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祈りのないクリスチャンは危ない ― 主に伺う人生 ―
今日のテーマは「祈りのないクリスチャンは危ない ― 主に伺う人生」です。
クリスチャンとして歩んでいても、時に祈りを忘れ、自分の力や知恵で問題を解決しようとしてしまうことがあります。しかし聖書は明確に語ります。祈りを失うと、方向を見失い、滅びに向かう危険があるのです。
サウルの失敗:祈らない危険
サウル王は、サムエルの死後、祈ることをやめ、魔術や占いに頼るようになりました。サウロ王は晩年「偽りの霊」に惑わされ、最終的には滅びに導かれました。
私たちも祈りを怠ると、ついお金や人の力に頼りたくなる危険があります。しかしそこには真の平安も解決もありません。
祈りの力:主の御心に合わせる
イエス様は弟子たちに祈りを教え、「主の祈り」を通して、神の御心に合わせて祈る大切さを示されました。祈りは自分の願いを押し付けるものではなく、神の御心に従う力を受ける手段です。日常生活でも、祈らずに行動して失敗した経験はないでしょうか。
ダビデの模範:困難でも主に伺う
ジグラグで家族や財産を奪われたダビデも、落ち込む中で主に伺いました。「しかしダビデは、自分の神、主によって奮い立った」(1サム30:6)とあります。
祈りによってダビデは新しい方向性と力を受け、敵から奪われたものをすべて取り戻しました。祈りによって失われたものを回復できるのです。
現代の教会への適用
神は今日も教会に回復を与え、奪われた恵みや使命、次世代への信仰継承を取り戻されます。
私たちはまだ道半ばですが、主は必ず教会を完成され、栄光を取り戻されます(エペソ4:12-13)。
祈りを失ったサウルは滅びに向かいました。しかし、祈りを持ち続けたダビデはすべてを回復しました。
祈りは私たちの命綱です。どんな状況でも、主に伺う者として、祈りによって方向性を受け、力を受け、失われたものを回復していきましょう。
死ねば生きる! 〜自分に死ぬとき、実を結ぶ〜
「死ねば生きる」──一見、矛盾しているように聞こえる言葉です。
しかし、聖書はこの真理をはっきりと教えています。
私たちが自分に死ぬとき、そこから本当の命と豊かな実りが始まります。
それは単なる宗教的なスローガンではなく、日々の歩みの中で体験できる神の約束です。
キリストの犠牲と私たちの礼拝
私たちが神に近づくことができるのは、イエス・キリストが十字架で流された血によるのです(ヘブル10:19–23)。
礼拝は、その犠牲への感謝から生まれます。
だからこそ、私たちは「自我」を手放す必要があります。
しかし、どんな状況でも手放してはならないものがあります──それは「信仰」と「確信」です。
一粒の麦のたとえ
イエスはこう語られました(ヨハネ12:24)。
「一粒の麦は…死ななければ一粒のままである。しかし、死ねば多くの実を結ぶ。」
種が土の中で形を失い、やがて芽を出し実を結ぶように、私たちも古い自分に死ぬとき、神中心の新しい人生が始まります。
それは痛みを伴うかもしれませんが、その先にあるのは喜びと豊かさです。
キリストと共に歩む人生
パウロは告白しました(ガラテヤ2:20)。
「私はキリストと共に十字架につけられました…」
この告白は、自分の人生をキリストに委ね、自分の力ではなくキリストによって生きる決断です。
そのとき、私たちは平安と喜びに満たされ、愛をもって神の栄光を表す歩みが始まります。
教会は「消費する場所」ではなく「家族」
日本の教会の礎には、多くの宣教師たちの自己犠牲がありました。
教会は神の家族であり、キリストの花嫁です。
互いに合わないと感じる人との関係も、神が与えてくださる訓練と恵みの一部です。
そこから私たちは愛と忍耐を学びます。
信仰を守り抜く
「集まりをやめず、励まし合いなさい」と聖書は勧めます(ヘブル10:24–25)。
信仰を持ち続ける人には、忍耐の先に必ず神の報いがあります。
私たちの道はしばしば行き詰まりますが、神に献身する道には、神ご自身が責任を持って導いてくださる確かな希望があります。
霊的戦いの時代に
今の時代は情報があふれ、偽りも横行しています。
教会の使命は、数を増やすことよりも、確かな信仰をもった人を育て、霊的戦いに立つ勇士を生み出すことです(2コリント10:4–5)。
敵は私たちの心を攻撃し、不安や恐れ、自己嫌悪へと引き込みます。
だからこそ、信仰を守り続けることが何より大切です。
かつて日本で仕えた宣教師メイベル・フランシス師は、自分に死に、神に従い抜きました。
その実は、今も多くの人の人生に残っています。
今日、あなたも選ぶことができます。
自分に死に、キリストに生きる道を。
そこにこそ、本当の命と、誰も奪うことのできない豊かな実りがあります。
2025年 教会目標
新年の決意:「本物の弟子となる」
2025年が、主の恵みと平安に満ちた祝福の一年となるよう、心からお祈りいたします。
今年、私たち三次シティバイブルチャーチは、「本物の弟子となる」というテーマを掲げ、信仰生活をさらに深めることを目指します。そのために、次の3つの決意を持って共に歩んでまいりましょう。
1. キリストのことばにとどまり、真の弟子として歩む
「わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
― ヨハネ8:31–32
主イエス・キリストの弟子として、私たちは日々、みことばにとどまり続けるよう招かれています。それは単に聖書を読むことにとどまらず、祈りを通して主との交わりを深め、みことばを生活の中で実践することです。
イエス様はこうも語られました。
「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます」(ヨハネ8:12)
今年は、闇ではなく光の中を歩む人生を選び、キリストの光を映し出す真の弟子として生きましょう。
2. 真理に立ち、キリストにある自由を体験する
私たちは、イエス・キリストを信じることによって、罪の奴隷から解放されました。しかし、実際に自由を味わいながら生きるためには、自らの意志と日々の歩みの中で、真理にしっかりと立ち続けることが必要です。
一度の祈りですべてが変わるわけではありません。
たとえ悪霊が去っても、私たちの内にある古い思考や習慣が変えられるには時間がかかります。心と考え方が変えられなければ、私たちは罪の奴隷ではないとしても、劣等感や敗北感の中にとどまってしまうことがあります。
2025年は、みことばの真理に立ち、主にある自由を実際に体験する一年としましょう。
3. 真理を適用し、主にあって治める者となる
「恵みと義の賜物をあふれるばかり受けている人たちは、一人の人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するようになるのです。」
― ローマ5:17
弟子とは、イエス・キリストを個人的に知り、その権威を委ねられた者です。
私たちはキリストにあって勝利者であり、この世の流れに流されるのではなく、真理を適用して「治める者」として生きることができます。
主が与えてくださる恵みと義によって、今年、私たちはあらゆる場面で勝利を体験し、影響力を持つ人生を歩んでいきましょう。
2025年――
この一年が、キリストにある真の自由と勝利に満ちた年となることを信じ、共に本物の弟子として力強く歩んでいきましょう。